こんにちは、広報担当の大坪です。
現代の日本では、国民の暮らしは憲法によって保障されています。
「第25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」
しかしこの現代日本においても、救済制度が行き届かない事で図らずも住居を持てない方がいるのも残念ながら事実です。では昔の日本人はどのような建物・環境で暮らしていたのでしょうか?
世界中の歴史と違わず、日本でも時代によりそれぞれ身分制度があり、それによって住居にも様々な違いがありました。しかし現代と違うのは、集落や家族での暮らしが基本だった事でしょう。
本日は、いわゆる「庶民」の住居に焦点を当ててレポートしてみたいと思います。
時代ごとの住居
古代~
「竪穴式住居」、皆さん歴史の授業で習いましたよね。庶民(農民)の住居は基本この竪穴式住居でした。
竪穴式住居はその名の通り、地面を円形や方形に掘りくぼめ(竪穴)、壁や土間の床をつくりその上に屋根を架した半地下式の住居です。
竪穴式住居は地方にもよりますが、平安時代になっても農民の住居としては主流だったようです。(東北地方では室町時代まで造られていたそうです。)
奈良時代
前述の通り“平安時代になっても”、つまり奈良時代も農村などの民衆は竪穴式住居が主流でしたが、平城京に住む労働者は少し違いました。
工事や運送、洗濯、仏像の職人などかなりの数の仕事が既にあったようです。そういった平城京内で働く「庶民」の宅地は、平城京内ではあるものの“平城宮”からはかなり離れた端の方で、貴族とは比べ物にならない小さな土地にしか住めなかったと言います。
建物はと言うと、“掘っ立て小屋”のような小型の掘立柱建物が2,3棟と、他に畑や井戸があったそうです。しかし、宅地内に2,3棟や畑…十分広くない⁉と思った方、大正解です。高貴な人に比べてとても小さいとは言いながらそれでも200㎡ほどあったらしく、現代の一般的な宅地と比べても充分な広さです。
画像:奈良市教育委員会 1992 『平城京展図録10:平城京を築いた人びと』より引用
画像リンク:滋賀県穴太遺跡の集落復元模型/奈良文化財研究所Webサイトより
https://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/images/sahorou20190801_2.jpg画像:手前2つが掘立柱建物 (画像奥:大壁建物)
平安時代
平安時代に入ってからはどうでしょうか。近畿圏で掘立柱建物跡が見つかっている以外は、農民集落は相変わらず竪穴式住居の暮らしが主流でした。しかし平安京内の庶民の間では「町家」が建てられ始めます。これは商家の店舗兼住宅として建築され、同時に土間より高さを取った住居内の“床”が生まれたとされています。
“土間”と“床座”の2室のみの住居を「二室住居」と言い、現代に残る京町屋でも、“おくどさん”と呼ばれる釜が置かれた煮炊きをする場所は土間のままになっています。日本人は、土間と床座を基本とした生活のスタイルを大変長く続けてきたのですね。
画像:年中行事絵巻/国立公文書館デジタルアーカイブより
平安時代後期に制作。町家の様子が描かれています。
鎌倉―室町―安土桃山時代
平安時代後期頃から武士の台頭が始まり、鎌倉時代になると武士は “武家造”とも呼ばれる寝殿造(平安時代貴族の住居)を簡素化したと考えられる建物を住居とするようになります。室町時代に入っても寝殿造りの面影を残していた武士の住居は、室町の終わりごろに“初期書院造”が生まれ、現代の和室の原型となっています。
平安時代の寝殿造りでは、畳は移動式、仕切りは無く屏風や簾で目隠しするのみだったのに対し、書院造は畳を敷き詰め、障子戸を用い、床の間などの座敷飾りが造られるようになり、安土桃山時代には書院造は完成されます。こうして、書院造は身分が上層の武士用住居として定着、家臣等は城下に「町家」や「侍屋敷」を立て居住するようになり「城下町」が形成されるようになります。
一方庶民においては、平屋建て、板葺き屋根など非常に簡素なままで、相変わらず二室住居に暮らしていました。職場兼住居として理にかなっているとはいえ、平城京の庶民より質素で狭小住宅です。過去に平城京や平安京内の庶民のみが享受していた住居様式が、規模を縮小しながらもやっと平均的に行き渡ったような印象でしょうか。
商家の町家も平屋・板葺き石置き屋根で、まだ瓦は使われていませんでした。
画像左(上):書院造(室町時代)/掛川城二の丸御殿御書院
画像右(下):鍛冶屋住居(鎌倉~室町時代) 出典元:裏辺研究所 http://www.uraken.net/index.html
江戸時代
江戸時代になると、主に農家などで二室住居が発展した「広間型住居」がようやく誕生します。土間で炊事や農作業をし、床座を広くして広間を作り、更にその奥に間仕切りで用途別の部屋を設けたようなイメージです。広間には囲炉裏が置かれ、生活の中心として家族団らんや食事の場所に使われました。
奥には座敷や寝室として使われる納戸がありました。
更に、広間型住居が発展し「田の字型(四間取り)住居」が登場します。広間部分が田の字に建具で仕切られ、様々な使い方に対応できるようになっています。主に冠婚葬祭など人が集まる行事を意識した構造で、用途に合わせて襖を開け閉めして使われました。
画像左(上):田の字型住居
画像右(下):土間のかまど
それでは都市部ではどのような発展があったのでしょうか?
都市部の庶民の居住エリアには、商人の住居「町家」や集合住宅「長屋」がズラリと並ぶようになります。
町家と長屋の違いですが、まず「町家」は商家の店舗兼住宅で建物が独立しています。対して「長屋」は、複数の部屋が一つの建物内で壁を共有している集合住宅です。横長―――い建物を壁で間仕切り、それぞれの部屋に玄関が付いていると考えればわかりやすいと思います。よく時代劇で目にするアレですね。
また庶民の約7割は板葺き屋根の長屋で間借り暮らしをしていたと言われています。床の間や瓦葺き屋根は贅沢だとして、身分の高い武士など以外には禁止されがちだったようです。
現代の私たちが賃貸住宅に住んでいるのとさして変わらないのが、江戸時代の都市部の発展性を感じさせますね。けど農家の方が広々としていて羨ましいけど…って思ってしまうのは私だけでしょうか。都会と田舎で環境が違うのは、今も昔も同じなのですねぇ。
(因みに江戸は1700年代には100万人都市として世界一の大都市だったのです。2番目は約63万人のロンドンでした。)
画像:長屋が立ち並ぶ当時のイメージ
そして一部町家では、屋根に瓦が用いられ防火壁の役割を持つ“卯建(うだつ)”を上げるようになります。卯建とは、町家と町家の間の屋根を少し持ち上げた構造のことです。江戸時代が進むにつれ装飾的な役割に変化していきました。
卯建を上げるには費用がかかった事から、卯建が上がっている家は比較的に裕福な家でした。お察しの通り、生活や地位が向上しない意味で使われる“うだつが上がらない”の語源と言われています。
画像左(上):卯建
画像右(下):卯建がある町家群
明治以降~近代
幕府政治が終わりを告げると、建築に関する封建的な規制もなくなり資力に応じて住宅を造るようになりました。ただ、洋風建築の家を建てるのは政治家、実業家などごく限られた階層の一部の人であり、ほとんどは和風住宅でした。
大正時代に入りサラリーマンや都市知識人が洋風建築に憧れ、和洋折衷の文化住宅が都市郊外に多く建てられるようになりましたが、家の中では靴を脱ぎ畳でくつろぐと言う生活スタイルはほとんど変わらなかったようです。
そして瓦屋根に縁側のある木造住宅が一般住宅の主流になっていきましたが、1923年の関東大震災による木造家屋の倒壊被害の多さから、鉄筋コンクリートの公共集合住宅が登場します。
戦後には品質が安定したハウスメーカー住宅の人気が上がり、住宅市場の近代化が進みました。
画像左(上):福岡赤煉瓦文化館(明治42(1909)年竣工)/住宅ではないが、明治を代表する建築家・辰野金吾と片岡安による洋風建築。19世紀末のイギリス様式。赤煉瓦と白い花崗岩の外壁や尖塔やドームなど、小規模ながら変化に富んでいる。
画像右(下):望景亭 (姫路文学館内)/大正時代の民家を補修した建物。40畳の和室と茶室を備えているそう。貸室が可能だそうなので、当時の雰囲気をゆっくり味わうのにうってつけ。
銀座に今も残る当時の高級集合住宅“奥野ビル”/1932(昭和7)年竣工
https://www.nippon.com/ja/ncommon/contents/guide-to-japan/84959/84959.jpg
銀座1丁目にある、レトロとモダンを感じさせる昭和初期の奥野ビル。
旧名「銀座アパートメント」と言い、当時はまだ珍しかった鉄筋ビルで住宅用エレベーター(なんと手動開閉!現役!)も備えたため、銀座屈指の高級アパートとなった。
参考サイト:nippon.com
https://www.nippon.com/ja/guide-to-japan/gu900067/
―まとめ―
ここまでかなりザッッッッッックリと庶民の住宅について書いてきました。現在でも残っている住宅は割と裕福な豪農や文化人の家だったりするため、本当の庶民の暮らしを考える機会は中々少ないですよね。現代の建築技術は大変素晴らしいものですが、古来の日本家屋の開放感も魅力的です。(平安時代の寝殿造なんて壁がないですから)。
全くどうでも良い話で恐縮ですが、私は田舎育ちのくせに大の虫・昆虫嫌いで家に侵入された日には気がふれたように騒ぎます(笑)。でももし江戸時代の農家の家や、土間がある平屋みたいな開放的な家なら、虫がいても案外平気な気がするのですよね、自然の中に虫がいるのは当たり前だから。
現代の住宅は耐震性能や高断熱・高気密で健康寿命に貢献している面もあるのですが、自然と人間の隔たりは大きくしてしまったのかもしれませんね。
長屋住宅は現代でも人気が出てきていますし、時代の移り変わりの中で古来の建築が進化した新しいスタイルがどんどん生まれてくるかもしれません。閉じこもる家ではなく開放的に暮らす、そんな自然と共存するスタイルの家が様々な意味で地球にやさしい家なのかな、その方が地球にやさしい気持ちになるなと、このブログを書きながらそんな事を思いました。