画像左:明治時代の庶民台所の図
画像右:百万石大名邸の大台所の図
出展/台所文化史(国立国会図書館デジタルコレクション)
こんにちは、広報担当の大坪です。
先日自宅で料理をしていた時ふと、「今みたいに立って料理をするスタイルはいつからなんだろう?」と疑問が浮かびました。
と言うのも私は長身のため、賃貸標準サイズのキッチンが低くて腰に負担がかかりつらくなるのです。
現代のスタイルが効率的だしフライパンを振るなどは立たないと難しいでしょうが、基本座って調理できたら楽なのになぁ…と常日頃考えてしまうのでした。
と言うわけで、本日は日本の台所・キッチンの歴史を見ていきましょう!
<原始時代>約330万年前~弥生時代頃まで
原始時代の中でも縄文時代以前は、河原を炊事場として木などに自在に狩猟で捉えた獲物を吊るして焼き、平なまな板岩をテーブルのように使っていたようです。
天候に左右される大変なスタイルですね。
縄文時代には、竪穴式住居の中に炉を造り調理や食事をしていたようです。遺跡からも炉跡がたくさん発掘されており、住居外にも燻製炉を造り調理していた痕跡が発見されています。美味しい物を食べたいのは、今も昔も同じですね。
また、縄文時代には既に塩づくりが行われていたこともわかっています。天然塩…よだれが出てきそうです。
縄文時代に造られた土器も大きな役割を果たし、炉と土器によって「煮る」「炊く」「蒸す」という調理が可能になりました。ひとところに定住するようになったのも縄文時代と言われています。これにより住居内に事実上の「台所」が誕生したのでした。
弥生時代には稲作が始まり米を食べるようになり、土器の表面に“吹きこぼれ”の痕跡がないことから、蓋をして炊くのではなく雑炊のようにして食べていたと見られています。
画像左:古代の調理風景
画像右:御塩焼所内部の図
出展/台所文化史(国立国会図書館デジタルコレクション蔵)
<古墳時代>
古墳時代になると朝鮮半島から「かまど」が伝来します。炉は地面を掘りくぼめただけの炉に変わって大活躍するようになります。
煙を逃がすため住居内でも端の方に設置し、煙は煙道を通って外に排出される構造で、かまどの隣には「貯蔵穴」と言う穴が掘られ食材が保存されていました。「貯蔵穴」を冷蔵庫と考えると、調理するコンロの側に冷蔵庫と言うスタイルがこの頃生まれ、現代でも同様なことに驚きますね。
画像:古墳時代遺跡(夏見台)から発掘されたかまどと貯蔵穴跡
出展/夏見台 : 古墳時代集落址・工房址の発掘調査(国立国会図書館デジタルコレクション)
<飛鳥~奈良時代>
平城京の平城宮跡の発掘調査では、「竈(かまど)」「甕(かめ)」「甑(こしき)」や他の土器などが出土しています。また、水洗い場と加熱調理場では発掘されたものが違い、水洗い場跡では持ち運び式かまどなどの調理器具が見つかっていたのに対し、加熱調理場跡では大量の食器が出土しました。
火を使って調理する場所を奈良時代には「くりや」と呼んでいたようで、その後中国から「厨」と言う漢字が伝来した時に「くりや」に当てはめたようです。
場所ごとに機能を分けた大型システムキッチンの様な、進化した台所になっていたと考えられますね。しかし土の焼けた跡などから、調理スタイルは変わらず座り姿勢だったようです。実のところ、立ったり座ったり大変な料理環境は、昭和まで続きます。。。
画像:かまどのいろいろ
出展/くらしのなかの燃料―台所のなかの火の歴史
http://ktymtskz.my.coocan.jp/S/chemi/life9.htm
<平安時代>
平安時代になると、居室からできるだけ火を遠ざけるため、別棟で台所がつくられるようになりました。「厨(くりや)」に対して、盛り付けをしたり食事を配膳する盤(現在の皿)を乗せる台を置いていたりする場所を「台盤所」とよびました。その台盤所が転じて「台所」と呼ばれるようになったと言われています。
宮中では清涼殿の一室が台盤所になっており、女房(宮中や貴族に仕える女性)の詰め所でした。貴族の御殿では台盤所は食事を調理するまさに台所でした。
そして平安時代中頃から、台所を取り仕切る立場の大臣・大将など身分の高い人の奥方は、“御台盤所(みだいばんどころ)”“御台所(みだいどころ)”“御台”などと呼ばれるようになりました。
画像:石山寺縁起絵巻
1130年(崇徳天皇代、鳥羽院政期)頃を描いたと思われる、鎌倉時代末期成立の絵巻。式部少輔藤原国親の邸宅を描いた様子。台盤所とみられる部屋で女性3人が主人夫婦の食膳の用意をしているであろう様子が見える。
出展/国立国会図書館デジタルコレクション
<鎌倉~安土桃山時代>
室町時代には「厨」から「台所」へ料理を運ぶ手間を省くため、同じ建物に両方を作るようになりました。それがまとめて「台所」として定着していったのです。
1351年(室町・南北朝時代)に西本願寺の覚如上人の伝記を門弟や息子によって叙された「慕帰絵詞(ぼきえことば)」と言う絵巻があります。鎌倉~室町頃の日常生活の描写が随所にみられ、当時の生活様式を伝える貴重な資料です。
この中に台所が描かれており見てみると、かまどが土間に、囲炉裏が板間に造られ、囲炉裏横に簀子状の流しのような設備や配膳用の棚などが描かれ、この頃にはすでに台所としての様式が確立されていたことがわかります。
画像:慕帰絵詞/出展:国立国会図書館デジタルコレクション
左:鎌倉・室町時代の台所 ほとんど完成されていますね。
中:囲炉裏に鍋がかけられ、右奥には膳が用意されています。おしゃべりしながら食事準備をする様がありありと伝わります。
右:左下の部屋では会席の調理が行われており、こんもりと積まれた松茸が描かれています。この絵は松茸を描いた日本最古の絵とされています。
また余談ですが室町時代後期~安土桃山時代は味噌や煎餅などの保存食が庶民にも普及した頃です。醤油は、味噌から染み出した汁が始まりといわれています。おにぎりもこの頃に兵糧として重宝されました。戦乱の中手早く食事をするための術だったのでしょう。
手間を省くため「厨」と「台所」が1か所にまとまった事も、図らずも戦の世にマッチしたのですね。
昨年は、豊臣秀吉が建てたと言われる「妙法院庫裏(国宝)」の地中から、16世紀末のものと見られる竈跡が発見されました。庫裏とは寺の台所のことで、秀吉は1595年に大規模な先祖供養を行ったと言われており、その際妙法院庫裏にて約800人もの僧の食事を用意したとされています。今回発見された竈跡にあった竈も使われたのでしょうか。
画像:酒飯論絵巻/出展:国立国会図書館デジタルコレクション
こちらは応仁の乱後、戦国時代突入の頃にちょっと前の室町時代を描いた絵巻。下戸・飯好きの男、酒好きの男、両方適度に嗜む男、の3人がそれぞれの持論を展開する、と言う構成だそう。調理、配膳、飲食の様子が詳細に描かれており、当時の食文化を知る貴重な歴史資料です。
左:武家の屋敷には厨房が用途に分けて2つあったのだろうか?こちらは米を選別してより分けているようだ。描かれた場面の中には僧侶もいるため精進料理だろうか。おにぎりを作って積み上げられている。
右:こちらの台所では肉・魚をさばいて煮込み料理を作っているようだ。
<江戸時代>
江戸時代の庶民は7割が長屋暮らしでした。井戸やトイレは共同で、畳敷きスペースは4畳半程度。長屋にもよりますが、ちょっと気の利いた長屋だと、台所はそれぞれに付いていたと言います。
基本的には土間に竈が置かれるのですが、狭い長屋の場合は畳敷きと土間の間の板間に置かなければならないこともあったようです。食器は井戸端や川で洗い長屋に戻り、室内で木製の簀子のような流しを使って台所仕事を行いました。
女性が家事をする台所は暗くて寒い北側に位置することが多かったようで、土間と板間の行き来、しゃがんで竈で火を起こす作業など、体への負担は大きかったでしょう。
武家はと言うと、江戸時代初期は「慕帰絵詞(ぼきえことば)」や「酒飯論絵巻(しゅはんろんえまき)」に描かれている様子と変わりはありません。むしろ客人のもてなしや主君の為の料理は男の仕事だったようです。台所の様子は相変わらず座り仕事。かと思いきや土間へ降り立ったり座ったり。体力仕事です。
武家屋敷は書院造のためほとんどが畳敷きの部屋ですが、台所は板間でした。そして農家に比べて土間が小さいため、竈は板間の台所に設置されていることも。寒い土間と板間の行き来が庶民や農家に比べると少なく、下級武士の生活は庶民とほぼ同等とは言いますがそれでも少し良い生活だったことが窺えますね。
画像左:男重宝記
出展/国立国会図書館デジタルコレクション
1692年に苗村丈伯が女性の心得を著した「女重宝記」が書かれ評判が良かったため、著者は翌年「男重宝記」も著したと言う。武家屋敷で男が台所で従事している様子が分かる。
画像右:せまい土間と板の間にあるかまど
中級武士の屋敷。中下級武士の家では奥方が自ら台所仕事や管理をしていました。
出展:房総のむらデジタルミュージアム
https://www.chiba-muse.or.jp/MURA/kikaku-mura/juu/jyuu.htm
<明治~大正時代>
明治時代に入ってもしばらくは台所にまでは文明開化は届かず…相変わらず土間と板間の台所で立ったり座ったりの環境は変わりません。板間の竈、木製の蹲踞(つくばい)式(ひざをついて炊事を行う作業姿勢)流し。
そんな中、明治終わり頃~大正にかけて、台所改造の声があがるようになりました。椅子文化などもなじみが出て来たでしょうから、古来の蹲踞式台所が耐えがたい物になって行ったのであろう事は想像に難くありません。
声が上がりだした台所改善運動は、台所用品の工業化を進めました。台所での動線や動きを研究し、その結果寸法の標準化が成されたのです。(これが長身の私にはつらい寸法なのですが。。。笑)
ガスや水道つき流しの導入が進み始めようやく立ち姿勢での料理仕事ができるようになり、土間と板間として居住空間から外されていた台所も、生活空間の一部へとなり始めました。
画像:大正7年(1918年)に住宅改良会が行った台所の設計図案懸賞募集の「台所設計図案等2等当選案」
出展/キッチン・バス工業会Webサイト
https://www.kitchen-bath.jp/statistics/knowmore2.html
大正デモクラシーの風潮の下起こった台所改善運動で台所改良の第一点は、うずくまる姿勢の不合理を改善し、立ったままで調理を行うようにすること、電気・水道・ガスの近代設備を整えることだった。
<昭和時代>
台所の次の大変革は、昭和の第2次世界大戦後に訪れます。
家を戦争で失った住宅困窮者への住宅供給が急務となり、昭和30年に設立した日本住宅公団(現 都市再生機構。UR都市機構)は西洋式の集合住宅を一つの標準タイプとして設計しました。
テーブル・イスを配置したダイニングの隣に台所を配置したDK(ダイニングキッチン)が一般家庭の標準となったのです。これにより家事中の移動を減らすと共に、家族と会話をしながら料理をできるようになり、LDK(リビングダイニングキッチン)というコンセプトが誕生したのでした。「キッチン」と言う呼び名が一般に普及したのはたった80年弱前なのですね。
ちなみに現在も主流の金属版の流しですが、これは昭和初期頃に衛生環境の改善が主な目的で腐りやすい木製流しに仕上げ材として金属板を貼るようになったと見られています。
画像左:同潤会代官山アパートの復元(1927年(昭和2年)竣工
画像右:板橋の蓮根団地の復元_人研ぎの流し台(1957年(昭和32)竣工)
出展:全国建物調査診断センター 月刊「大規模修繕工事新聞」
https://daikibo.jp.net/
<現代~ そして最後に>
一般住宅のLDK化によって空間デザインの一部となった台所・キッチン。料理をする方なら男女問わず、使いやすく清潔に保ちやすいキッチンを求めることでしょう。さらに近年は特に対面型で間仕切りを設けないアイランドやペニンシュラが主流ですね。
これは昔の日本からは考えられないほどの感性の進化だと私は思っています。今でもさすがに「冷蔵庫」を他人に喜んで見せる方はそういないと思いますが、キッチンはそれと逆行しました。かつては壁で間仕切りダイニングとは分けていたキッチンが、見せる⇒魅せるものに変化したのです。これにはキッチン自体の素材の進化やデザインの価値などが大きく貢献していると思いますが、そのほかに、生活に関わる感性の変化もあると思うのです。
台所を間仕切り隠してしまうと、暗い一人仕事の空間になってしまいがちです。核家族化が進み、共働き世帯が増えた現代では、コミュニケーションの場所としてキッチンを必要としたのかも知れません。
“分離された空間⇒顔が見える・配膳を手伝えるキッチン⇒家族や来訪者で囲むキッチン”
これからも時代の変化と共に新しいスタイルができるのかもしれません。
TOYO KITCHEN STYLE Webサイトより
https://www.toyokitchen.co.jp/