こんにちは、広報担当の大坪です。
突然ですが、トイレって、汚い所と思っていますよね?現代では汚い理由となる根拠が科学的に沢山わかっているので、「トイレは汚い」「キレイなトイレは素晴らしい!」と思うわけです。
しかし、菌だのウイルスだのという存在を知らない古代の頃でも、便所はやはり汚いと言う認識だったようです。
では日本人は、「厠」をどのように進化させて来たのでしょうか?
本日は便所をテーマにしたいと思います!
厠 かわや
トイレ(便所)を昔は「厠 かはや」と呼びました。
平安時代に編纂された辞書“和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)”の厠の説明を見ると、「けがらはしき處(ところ)」とわざわざ明記されているようで、昔から便所は汚い場所と認識していた言う事がはっきりと見て取れます。
厠の語源説は複数ありますが、中でも“川屋(河屋)”と“側屋(側舎)”から起こったとするのが有力と考えられています。
時代ごとの厠
古代~古墳時代の厠 ~540年
厠の歴史は、当然に人間の歴史と同時代まで遡ることができるでしょうから、もはや考古学の世界の話になってきます。古代には自然の浄化作用に任せるスタイルで、穴を掘ったり埋めたり流したりしていたと思われます。縄文時代には川にせり出した桟橋で用便して流す便所が遺跡などで広く見る事ができるようです。
そして3~4世紀にかけて、屋内に川の水を導水したものが使われるようになったようです。
「古事記」に書かれている内容によると、
“其の容姿麗美しきが故に、美和の大物主神、見感でて、其の美人の大便らむと為し時に、丹塗矢と化なりて、其の大便らむと為し溝より流れ下りて、・・・”
つまり溝がありその下に水流がある厠が存在したことを見て取ることができます。これが「川屋」となり厠に転じたと言うのが川屋語源説です。
更に、敵から身を守るために集落の周りに作られた堀を便所として使うようになったと見られています。
全ての厠が川屋であったかは不明で、むしろ後の時代に人糞を肥料に使用するようになりそれを貯蔵するために、母屋の外に離れとして建てた“側屋(建物の側にある)”が主流であったと考えるのが妥当という考えもあるようです。これが側屋語源説です。
画像:弥生時代のかわや(想像模型)
出展:トイレ博物館
飛鳥―奈良時代の厠 541年~793年
飛鳥時代は仏教伝来による一般建築の発達があり建物は大変進化ましたが、厠については恐らく「川屋」と「側屋」の2つの形式が続いていたと考えて良いでしょう。
奈良時代になって仏寺建築はますます盛んになり宮室建築が一代進歩し“平城京”が生まれました。厠に関しては明らかではないものの、「西大寺資材帳」に馬屋と並んで“瓦葺厠”とその広さの記載があり大きさから考えて共同便所だったと考えられ、溜める式の「側屋」が発達したのではないかと考えられています。
それにしても、便所が瓦葺きとは何とも豪華ですね。
画像左:西大寺資材帳(京都大学附属図書館所蔵)
右から5行目“馬屋房”の項4つめに「瓦葺厠」長 6丈4尺2寸(約20m)、廣 1丈2尺(約3.6m)と記載が読み取れる
画像右:秋田城址 古代水洗厠舎(平成21年復元)
発掘調査によって周辺には寺院や客館(迎賓館) と考えられる建物群が存在し、当時都にもないような立派な施設である事がわかり、この厠舎はとりわけ重要な人達が使っていたと考えられている。
発掘された有機物から、地元の人がほとんど使っていない事、当時日本にない豚食文化に特有の寄生虫の卵が含まれていることなどがわかり、交友のあった中国大陸の渤海国からの使者が使ったことが考えられている。
平安時代の厠 794~1191年
平安時代になると寝殿造が生まれ宮室建築が盛んに行われました。そんな中貴族は、容器に用を足すと都度中身を流して洗うと言うスタイルになりました。女性の用便はとても大変だったと言います。
持ち運び容器は「樋筥(ひばこ)」とか「清筥(しのはこ)」と呼ばれる木箱で、象牙縁の蓋があり漆が塗られ、金銀の蒔絵や螺鈿が施された豪華なものもあったとか。
しかし庶民はそうはいきません。
“餓鬼草子”と言う絵巻に、崩れた築地塀に沿った道端で老若男女が足駄を履いて排泄している姿が描かれています。当時庶民のほとんどは裸足か草履でしたので、履いている足駄は足元や着物の裾が汚れることを避けるための共同使用のものであったと考えられています。
零落した家のまわりの小路は格好の場所だったのでしょう。極めて素朴な共同便所であると推定されます。それ以外にも餓鬼草子では、様々な当時の人々の様子が生々しく描かれており大変おすすめです。
画像左:平安時代の樋箱
鳥居のような取手を背中側に、着物の裾をかけ用を足した。
画像右:餓鬼草紙
出展:国立国会図書館デジタルコレクション
戦乱が相次いだ平安時代の終わりから鎌倉時代初めにかけて制作されたと考えられている。苦悩に満ちた現実を直視するような性格をもつ作品といえるが、京都国立博物館に所蔵されるこの餓鬼草紙は苦しみばかりでなく餓鬼が救済される説話をいくつか収めており、他の類品とは思想背景が異なる可能性もある。
鎌倉―室町時代の厠 1192~1569年
鎌倉時代初期の禅僧・道元が執筆した「正法眼蔵」と言う禅の奥義を追究した著書があり、その中に
“雲堂の洗面処は後架なり。後架は照堂の西なり、その屋図つたはれり。”
と記述があります。当時の僧堂の裏に備えられた洗面所やその側に設置された東司(とうす=曹洞宗での厠の呼び方)を同義で“後架“と呼んだようです。
屋外に設置された厠では屎尿を樽や壺に溜めるようになりました。鎌倉幕府が米や麦の二毛作を奨励するようになり、溜めた屎尿は田畑の肥料として重宝されるようになったためと考えられます。これが昭和まで続いた“汲み取り式”便所の始まりと言われています。
屋内に便所を設けるようになるのは「書院造」が始まってからの様です。
書院造が確立されると邸宅建築は善美をつくしたものとなり、特に足利将軍邸ともなるとその例とも言える立派な造りであったと考えられます。
「三好筑前守義長朝臣亭江御成之記」(みよし ちくぜんのかみ よしなが あそんてい え おなり の き)と言う、室町幕府将軍・足利義輝が三好義長(陪臣=臣下の臣下)の邸宅を訪れた際の記録があります。
これによると、「厠に棚が造られていた」「手水(ちょうず)の桶と桶杓が黒塗りで蒔絵あり」と書かれており、相当に広く立派な造りであったと考えられます。将軍の“臣下の臣下”邸の厠が立派ならば(当時三好一族は大変に力をもっていたとは言え)、将軍邸の厠はどんなに豪華だったのでしょう?
鎌倉時代から戦国時代にかけて厠を屋内に設ける家庭が増えるようになったのですが、その背景には特に武家を中心に「敵にいつ襲われるかわからない」という保安上の理由が影響したと考えられています。
百姓でもいつ何に巻き込まれるかわかったモンじゃない時代だったでしょうからね・・・
画像:三好筑前守義長朝臣亭江御成之記(群書類従 第505-506)
出展:国立公文書館デジタルアーカイブ
左:左頁から記録が始まっている
右:三好義長邸の間取り図
安土桃山―江戸時代 1570~1867年
この時代になると厠は廊下の一端に造られ、湯殿(風呂)の近くにも必ず設けられるようになりました。
そして大名達の間で豪華な厠を造るのが流行したようです。禅宗文化や桃山文化と厠の融合ですね。
有名な武田家の軍学書である「甲陽軍鑑」にも信玄が“御閉所を京間六帖畳敷き““風呂の残り湯を厠の底に流した”“沈香(香木)を焚いて仕事をした”などの記録があり、清潔で広かったことが伺い知れます。(世界初の(屋内)水洗便所?)
豊臣秀吉に至っては厠を黄金でつくり(やっぱり!…)大名達に自慢し、その権勢を誇示していたようです。
画像:『御厠御小用所絵図(二条城各部分建物及幕置役所役宅等図之九)』(京都大学附属図書館所蔵)
江戸幕府京都大工頭であった中井家に伝えられた二条城に関する図面・文書類の内のひとつ。
対して庶民生活の厠については、桃山時代からあったと見られる公衆便所の記録があります。
1563年に来日し1597年に長崎で没した宣教師フロイスが著した「日欧文化比較」の中で、
“欧州人の便所は家屋の後の方のなるべく人目につかない場所に設けられているのに、日本人の便所は家の前にあってすべての人に開放している”
と記し、ヨーロッパでは見られない物として路傍の公衆便所の存在に注目しています。
更に当時来日したヨーロッパ人は口をそろえて“日本の都市は世界的に見ても最も清潔である”と誉めているようですが、その清潔さを保っていた理由のひとつとして“路傍便所”の存在が考えられると言えます。
1867年に喜田川守貞と言う商人が、31歳で大阪から江戸に来て27年暮らす中で完成させた「守貞漫稿」と言う江戸時代に東西文化の違いをしたためた随筆には「京阪は路傍諸所尿桶を置いて往来人の尿を棄す…江戸は路傍に尿所稀にあるのみ」とあります。
京では四辻の木戸脇などに桶を置いて辻便所としていました。ここは女性も堂々と使用していたそうで、東男である戯作家・曲亭馬琴はたいそう驚いた旨を記録しているそうです。また大阪でも、市政が執行された明治22年で、「路傍便所」と称される公衆便所が市内に1500か所も存在していたと言います。上方を中心に、公衆便所文化は広まっていったのですね。
一方で庶民の多くが長屋住まいの中、厠はごみ溜め・井戸と併設して12戸程度ごとに共用で個室スタイルのものが1~4つほど並べて建てられました。先述の「守貞漫稿」によると、こうした長屋の共用厠を江戸では「総後架(そうごうか)」、上方では「総雪隠(そうせっちん)」と呼んでいたようです。
風呂が無くトイレが共用のアパートは、減ったとは言え現代でもまだ稀にありますよね。江戸時代の長屋がルーツであると言って間違いではないでしょう。
江戸時代は屎尿を買い取る(物々交換)「小便買い」と言う職業がありました。小便をくれる人に大根を渡していたようです。また、街道に落ちている馬糞を拾う「馬糞拾い」も立派な職業だったようです。
これは、近隣の農家が肥料を求めて収穫した野菜と交換しに来たのが始まりと言われ、次第に商売として発展し肥料と言う“商品”として有料で取引されるようになっていきました。
江戸のリサイクル文化が、汲み取り式便所の更なる普及を促進したのですね。
画像:洛中洛外図屏風(歴博甲本)
出展:国立歴史民俗博物館
小川通り(手前)の西側(現在の小川通を今出川通から上がった辺り?)、町屋の裏には、井戸から水を汲む光景と、共同便所へ向かう人物が描かれている。便所はとびらが開け放たれて内部の構造がうかがえ、「金隠し」も描かれている。
明治―現代 1868~
明治時代になると欧米式の文化が取り入れられ始め、建築様式と共に腰掛けるタイプの“洋式トイレ”が設置され始めました。しかし大半は“和式”が主流で、洋式トイレは一般家庭や企業、学校などには普及しませんでした。
その後国産の洋式トイレが大正3年に開発されたり、明治中期には「水洗式」の便器が輸入されましたが、やはり普及はしませんでした。水栓トイレ普及には下水道や下水槽の整備が必要ですが、その整備が本格的にスタートするのは関東大震災後だったからです。
その後昭和に入って下水道・下水層の整備が進み始め、昭和30年代から水洗トイレが普及し始めました。洋式トイレも日本住宅公団が採用したことをきっかけに、徐々に一般家庭へ普及していったのです。
最後に
厠の歴史、奥深いですね。いかがでしたか?
現代に生きているおかげでいかに便利な毎日か、いかに長い歴史と文明進化の恩恵にあずかっているか、身に沁みますね。
これからは今よりも更に、資源を大切にしていかなければならない時代は進みます。先人たちの努力をしっかり学び、限りある資源とともに共存していきましょう。