こんにちは、広報担当の大坪です。
以前日本固有の床材として畳をレポートしましたが、そもそも床って何?いつからあるの?フローリングと何が違うの?と言う部分を掘り下げてみたいなと考えました。
多少、こちらも以前レポートした「民家の歴史」とも被る部分がありますが、今回は「床」に焦点を当ててみたいと思います!
床の誕生
日本で建物内に床ができたのは、縄文時代の高床式倉庫の板床が初めとされています。しかしご存じの通り、高床式倉庫は貯蔵・保管庫とされており人は住みませんでした。床が高く周囲が吹きさらしで住環境には向かなかったのです。動物も横穴や竪穴で暮らすのは、地熱の恩恵で夏は涼しく冬は暖かいからです。
高床の理由は食料を湿気から守るためとされていますが、これは日本以外でもアジアの高温多湿な気候の国では高床式の倉が共通して見られるためです。
記念すべき初床が食べ物を守るためだとは、人間の根源が何かを感じますね。
(戦争の歴史も元をたどれば、食糧確保のための土地争いです。)
私は九州出身なのですが、実家を思い出すと非常に床下が深かったなと気づきました。よくある、縁側に座って庭石に足を置いて…みたいなことが可能な高さではありませんでした。1階床が、庭から中型の柴犬が上がってこられない高さだったのです。
今思えば湿気対策なのかな、としみじみ思いました。全窓に雨戸など台風対策も厳重でしたもので。
人が暮らすための床の誕生
床の誕生について一説には、縄文時代には竪穴式住居で板を敷いた痕跡があり、これを床とみなすのであれば起源と言えるだろうと言う話もあります。
奈良時代の平城京内の庶民は、掘立柱建物の土間(地べた)にむしろを敷いて寝起きしていました。平城京外の庶民はまだ竪穴式住居です。しかし、もしかすると草やワラ以外に板も敷いていたのではと言う可能性も考えられています。
と言うのも、奈良時代の聖武天皇が使用していた(約1600年前)とされる置き型木製ベッドが、現在もなお正倉院に保管されているのです。庶民もゴツゴツの地面より、板をかまして草やワラを敷いた方が体が痛くないし清潔だと考えたことでしょう。
住居に本格的に床が誕生したのは、平安時代、平安京内で建てられた「町家(店舗兼住宅)」と言われています。土間から一段上がった板床が敷かれ、寝食を行うスペースを確保したのです。店舗でもあるため必要だったとも考えられますね。
しかし平安京外の庶民は相変わらず竪穴式住居の地域もあったようです。
京都に暮らす方はよくご存じだと思いますが、京都の冬は本当に足元からじりじりと冷えます。とにかく足が寒くて暖房で顔が火照る!そんな地面からくる寒さを緩和するために床が生まれたのではないかなぁ?と考えてしまいます。
余談ですが、私がアニメ映画で最も愛する「もののけ姫」は、神道的、特に動物・自然の神が強く表現されていますので、神話の時代のような中々の昔を描いているのかと思っていましたが、描かれている建物内に板床や小上がりがあることから早くとも平安時代以降であり、気になって物語設定を調べたところ室町時代の設定だそうです。
室町時代と言うと、昨年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は鎌倉時代であって室町時代より古い時代です。その頃すでに武士の世になっていますから、「意外と設定新しかったな」と思ってしまいました。笑
左:竪穴式住居の内部
右:平安京の町家が描かれた「年中行事絵巻」
土間から行事を鑑賞している様子が見える
畳の登場
畳については「古事記」に「菅畳」「皮畳」「絹畳」などの記述があり、奈良時代には畳様の物が存在していたと考えられます。
前述の奈良時代の聖武天皇のベッドは、材料・構造共に現在近い畳状の敷物を敷いて使用したそうですので、畳の前身は奈良時代にあったということになります。現物も正倉院に残っており、丸めて移動し、座具(座布団の前身?)としても寝具としても使用したようです。
現代と同様の形状の畳は、平安時代の貴族御殿で登場しました。今のように部屋に敷き詰めるのではなく可動式で、身分の高い人物の高座や寝床として使用されました。板間での生活に断熱性を求めたものだと思われます。
そして徐々に畳を敷き詰めるようになり、畳床が誕生します。これは鎌倉時代頃から、それまでの寝殿造りにはなかった天井が作られるようになったことで建具を用いて部屋を間仕切るようになり、区画された部屋に畳を敷き詰めるようになったようです。
畳床はその後書院造で発達して行き、部屋は畳床、移動する廊下等は板床、調理や作業は土間と、用途によって床の素材が明確になって行きました。高貴な武士の屋敷では、調理場が土間から上がった板間にも及んでいたようですが、特に火を使う調理は基本的には土間がメインでした。
そして武士の住居・書院造は室町時代に完成されます。庶民は畳など用いることはできず、土間と板間の二室住居です。
画像:慕帰絵詞(ぼきえことば) 室町時代の絵巻
本願寺第三世法主覚如(かくにょ)上人の伝記を述べ表した絵巻。覚如上人と思しき高僧は板間に敷かれた畳の上に座している。
安土桃山時代1605年の資料に初めて、「京間」と言う表現が登場します。畳の規格サイズが京都で考え出されたと言われている理由です。その後江戸時代に建築戸数が増えると、建材などの規格化が進み畳も同様に規格化されるようになりましたが、その寸法は地方によって違いが生じました。
寸法が大きい順に紹介すると、
「京間」→「中京間(東海地方)」→「江戸間(関東地方)」
で、畳1枚の面積で言うと京間に比べて江戸間が15%ほど小ぶりで、中京間は2つの中間程度です。
江戸時代に入ってようやく、書院造のしつらえが力のある商家などで取り入れられるようになり、座敷飾りが作られるようになるなど現代の近代和風住宅の原型とも言える発展が起こります。
江戸時代初期は、戦国時代に武将たちが茶の湯を政治利用した事の流れか茶道が非常に隆盛し、畳の規格寸法も既に生まれていたことから「畳割建物(畳の寸法と配置で柱の間隔を決める設計方法の建物)」が登場しました。畳の寸法に合わせて設計するので、規格化された畳はどう配置してもぴったり収まるというわけです。
一方江戸では、柱と柱の「芯(中心)」の間隔に合わせて畳に大きさを決める「柱割」という設計手法が生まれ、主流になりました。そこで大きくて収まらない京間に代わって江戸間が生まれたのでした。人口が多く密集している江戸ならではと言えるかもしれませんね。
しかし上記はまだ武家や商家の話。庶民はどうかと言うと、畳敷の文化が広がるのは畳職人制度が確立された後の江戸時代中期頃からです。農村に至っては明治時代まで板間中心でした。
封建制度であった当時、身分の高い人・裕福な人から文化・風習が生まれていた時代、庶民はどんなに不便で身体に優しくない環境を強いられていたか。現代人の私たちは歴史から学ぶべきことがとても多くありますね。
板間、畳床での生活と日本人
現代の日本人にも脈々と受け継がれている礼儀作法や食事、靴を脱ぐ習慣などの文化は、板間と畳床での暮らしによって培われてきたと言えると思います。
日本人は土間(現代では玄関)から家に「上がる」と言いますし、上がるときは靴を脱ぎます。昔は足を洗ってから上がったのも、床を雑巾がけするのも、何か通じる物がある気がしますね。
人のプライバシーに立ち入る厚かましさのことを「人の家に土足であがる」と言いますが、“土足”とは本来“泥で汚れた足”のことを言うそうで、それだけ汚れた足で家に上がるのは作法として許されなかったという事です。履物をぬぐだけではダメ、綺麗な足じゃないと上がらせない。ただの清潔好きだけには思えませんよね?
家に床が無かったころ地べたに敷物で寝ていた人々は、きっと世界中のどこの国でも土埃や泥に悩んだことでしょう。そして高低差を付け土埃と空間を隔てる床を生み出した日本人と、必要な時に自分の体のみを浮かせることを選んだ西洋人。この違いはどこから?
(正直私としては、靴のまま入る家では「床」というより「地べた、地面」と言った感覚の方が当てはまります。)
さらに現代で、私たちは板間ではスリッパ等履くことはあっても、畳部屋へ入るときには脱ぐのが習慣化しています。時代劇でも、江戸期のお城勤めなど身分の高い人が冬の廊下では草履を履いており、畳に上がると草履は履いておらず足袋で過ごしている様子を観ることがあります。
現代ではフローリングの洋室が主流になり忘れがちですが、冷たい板間は通路であり、畳床の部屋が中世よりの生活空間です。床に座って過ごすことが日常であった日本では、畳が独自に生まれたことも納得です。
私はここにやはり、建物内の生活空間にも神がいる感覚と言うか、日本人に染みこんでいる神道的な考えを感じます。それが習慣の端々に表れ、この美しい文化を形成しているのでしょう。
(もちろん、実用的に考えて、履物を履いて畳に上がるのは畳が傷むというのもあるとは思いますが)
フローリングとは
もう日本語化してしまっている「フローリング」、当然英語の「Flooring」から来ていますが、日本では意味が変化して使われています。
英語のFlooringは、床を覆う素材全般や床張り(床を張る工事)のことを指します。対して日本では、「畳」に対して「フローリング」のような感じでフローリングと言うと板張りの床のことを連想しますよね。
木の床を英語で言いたいときは“Wooden floor”が正解です。
ではここからは日本語の「フローリング」で読み進めてください。
現在ではプリント合板など技術が発達し、無垢フローリングや複合フローリングなど様々な素材の床張りがあり、ペットの足に優しい床材、床暖房に向いている床材など、様々な製品が開発されています。
フローリングは日本にもずっと昔からあったわけですが、現代ではその張り方で多様な意匠性を生み出すことができます。一昔前ならば、木製床板のお店があったとしたらそれは、銭湯や居酒屋、ウッドデッキをイメージしたようなカントリー調のお店くらいだったでしょう。
ですが今では様々な組み方で、ホテルやおしゃれなカフェなどの高い意匠性を持つ店舗でも大活躍しています。
最後に
”あし原の しけき小屋に すが畳 いやさやしきて 我二人ねじ” (神武天皇)
これは神武天皇が皇后・伊須気余理比売(いすけよりひめ)との新婚エピソードを回想した歌とされ、古事記に記録されています。
「葦のたくさん生えた原の粗末な小屋で 菅(すが)で編んだ敷物をすがすがしく幾枚も敷いて 私たち二人は寝たことだったね」
菅畳は“ござ”や“むしろ”のようなものだったようですが、持ち歩ける畳と考えると便利ですよね。これからはレジャーシートはやめて、外ではござを使おう。
歌はまるで目の前にありありと様子が浮かぶようですね。
それでは今回は、生き生きとしたこの歌で締めさせていただきます。ありがとうございました。